写真作品 series of 【Butterfly dimension】2016-
デジタル写真を過剰に加工していくと、写真が粒子状になっていく。
私は常々、世界や人間も粒子でできているのではないかと思っている。
白昼夢の中で、私は光の世界に入っていく。
あらかじめ色が決められていない世界の中で自由な色の世界。
この世界はどこの世界なのだろう?
初めて文楽を観た時の作品が「契情倭荘子(けいせいやまとぞうし)」という演目で
恋仲の二人が死んだあと蝶になるという比喩に感銘を受けた。
二次元の世界のような蝶の形態とその比喩は二次元表現である
写真と写真に寄り添う終わった時間(死)という概念と重なっている。
裸の男たちは私の視覚的メタファーとして存在していた。
男たちを蝶に見たて、時間と一緒に標本にしている行為にも近いのだと感じる。
デジタル写真が加工されつくし、毎日の風景と男たちは自由な色と粒子の世界となった。
此岸と彼岸の間で男たちは生まれたがり、キラキラとした鱗粉を漂わせ蝶が舞っている。
この世界を蝶次元と名付けた。
川本直/文芸評論家
「文は人なり」という言葉がある。
文章に限らず、全ての芸術は作り手の魅力の技巧的な変奏だ。
それは写真においても変わることはない。
櫻田宗久がカメラに収めた男たちの華奢な裸身は、彼自身に似て男性性を超越した官能性を帯びている。
そして、写真に現れている喪失感と気品と優しさ。
その全てはモデル、俳優、歌手、写真家と様々な顔を見せてきたアーティスト・櫻田宗久自身が漂わせるイメージと驚くほど酷似している。
「蝶次元 – 此岸と彼岸の間で」は櫻田宗久その人の魅力の秘密を私達にそっと教えてくれる私的な小宇宙なのだ。
ヴィヴィアン佐藤/非建築家、美術家
瞼の裏の風景ともいうべき、幻視の像(スペクトル)は色彩や輪郭を超越し、いや、むしろそれらが生まれる以前の世界である。
木枠の年輪という冬の到来の徴は、記憶の遠近法に重なる。冬の記述が極端に少ないのは記憶の冬眠か。。
シャッターを切るとき、被写体や風景と同一化する写真家の肉体は完全に消失し、それらと同様に輪郭や色彩も失っているはずだ。すべて粒子化する世界はエピクロス的な無神論にも通じ、同時に永遠性を獲得する。
我々はどこから来てどこへ向かうのかという壮大で、かつ極小な問題を身近な日常で描く。像(スペクトル)こそは描かれないが、そこに出現するのは紛れもない亡霊性である。世界は亡霊で満ち溢れており、そこでは寝息が海風となり、敷布は砂漠と化す。